古書日記(2008/09)

古書日記『ビーコン街の殺人:ロジャー・スカーレット』

昔の日本では海外小説の抄訳が非常に多いです。完全に訳す人がいなかったり、ページ数の制限があったり、読者に要望がなかったり 原因は色々考えられますが結果的に非常に悲しい事です。

なぜならばそこには、訳者の主観的な解釈が強く反映されて、作品の本来の魅力が間違って伝えがちになるからです。

ロジャー・スカーレットは本国よりも日本で知られた作家といわれています。女流2名の合作名で全5作のみ発表されています。

早期に紹介されたのは良いのですが、抄訳ばかりで近年に未訳を中心に訳されると古い抄訳の完訳の再刊が要望されてきました。

この作品は2007年に完訳で出版されましたが、それまでは昭和15年の抄訳の「密室二重殺人事件」しかありませんでした。

その評価は密室は単純というようなものでした。題名自体が内容を理解しない間違ったもので、感想を述べた人も作品の本質に 触れる事はできずに抄訳の範囲内にとどまっていたと思います。今回の完訳では作品はあくまでもフーダニットで、そのストーリー に密室事件も含まれる程度でした。

ストーリー展開では、密室は謎として作者は重きをおかず、すぐに謎を解き明かしてしまいます。いわゆる密室トリック小説では なかったのです。いままでの評価は抄訳の評価で検討違いでした。翻訳作品は、訳の質で評価が変わってしまう事が度々存在します。 読者は注意が必要です。(2008/09/06)

古書日記『天城一・密室学教程』

数学者・中村正弘のミステリのペンネーム・天城一は戦後から知る人ぞ知る本格派です。数学者の独自のミステリ理論を持ち 同人誌・密室等に発表してきました。

中でも有名なのが「密室学教程」です。過去に多くの作家や評論家が密室の分類を行ってきました。基本的には文字通りの発表作 の文字通りの分類です。

「密室学教程」は演繹法で論じているのが第1の特徴です。密室に見える状態を数学的に定義して、「封鎖」と「監視」に分けて これが完全か不完全かで分類しました。

次に不完全な時はその理由で分類しました。そうすると過去の実作の有無に関係なく演繹的な分類が完成します。

第2の特徴は、作者自身がそれぞれの分類に対して短編・掌編で実作の見本を作った事です。

この評論と実作で、「密室学教程」は成り立っています。天城一作品の多くは、無駄を可能な限り削除したもので小説的には 色々な見方もありますが、密室分類という意味ではトリックが明確です。

漠然とトリックを探すのではなく、如何に新しいトリックを作るかの方法論としても有意義です。

本書が復刊され(正確には雑誌から単行本に新刊)好評で続いて2冊・合計3冊が出版されて短編ではほぼ網羅されました。(2008/09/13)

古書日記『日影丈吉・見なれぬ顔』

昔はデジタル植版でないので、再刊のときに出版社が変わっても判型の転用がありました。その結果、表題・目次・実際の内容が 異なる事は不思議でもなく多くあります。

日影丈吉は国書刊行会の全集により整理された形です。しかし古書を見ると??は当然にあります。

初長編(今では中編的)は「見なれぬ顔」です。そして書誌のいくつかは、別の出版社からの再刊時に「見しらぬ顔」に改題と なっています。

実は、1:判型の転用、2:「見なれぬ顔」と短編3作の作品集が「見しらぬ顔」とう表題の作品集になった(短編は2作に変更 )になった。

問題点、1:判型の転用のために再刊の中身は目次・作品題ともに「見なれぬ顔」のままです。2:作品集の題名が「見なれぬ顔」 から「見しらぬ顔」に変わっただけです。

この時代では、判型の転用は珍しくなくこの様な状態でも『「見しらぬ顔」に改題』とするのが多いとの意見がありました。たぶん 長編1作ならばそうかもしれませんが、作品集だけにどちらとも言い切れません。

国書刊行会の全集では、書誌で改題とはされていません。はじめて見る人は迷うかもしれません。(2008/09/20)

古書日記『大坪砂男全集』

短編作家・大坪砂男は、完成度を求めすぎて作品数が少なくなったと言われています。その2冊組の全集が、短い期間に2社から 出版された事があります。

・1972年刊行、薔薇十字社。

・1976年刊行、出版社。

筆者は後者しか読んでおらず、前者は見てもいないので事情も内容の比較もできません。

それ以後、国書刊行会の「探偵クラブ」の1冊として「天狗」という選集がでた位です。戦後すぐの作家が、特定の短い期間に 全集が出たというのは偶然か、事情があるのか気になります。

どちらも稀覯書までは行かないでしょうが、後者が時々見かけるのが現状でしょう。(2008/09/27)