古書日記(2017/02)

「古文書と旧かな使い」

古文書と言えば、現代文の知識では読めない文章を指すようだ。

いくつかには、現代語訳とか、現代語への翻案が出ている。

読めないものを集める人もいるが、古文書を読む事が出来る人もいる。

古文書の多くは、書かれた時代の知識で書かれるから言葉の意味も現代と異なる。

現代語訳でも、単純に意味が通じる訳でない。

内容も現代で読める内容にしないと、現代語訳とは言えない。

言葉や記述は絶えず変わって行くので、古書には古いかな使いや内容が多い。

それが読みにくくしているものもあり、復刊の時にはかな使いを直す校訂を加える事が一般的になっている。

そこで内容が変わるリスクはあるが、読めないと復刊の意味がないと思う人が多い。

どの程度を直すかは、実は復刊者や校訂者で変わる。

全集や選集では、責任校訂者がいて内容は深く吟味される。

スポット的な復刊では個別に事情は差があるだろう。

(2017/02/07)

「写真での復刻」

表記を変えない、初出のままの復刻も行われる。

資料性は高いとも言えるが、読めるかどうかは疑問だ。

海外著作物ならば、原文のままで翻訳なしでの出版に当たる。

ただ、古文書ではなく漢字や表記が古いものは読みづらいだけなので意味は異なる。

その中に、写真撮影してそれをもとにして復刻する事もある。

電子データが主流の現在だが、それ以前の活字印刷では元のデータを電子化しないと扱い難い。

そこでは手数を掛けない手段として、写真技術を利用する事もある。

電子化データが全盛の時代だが、その移行への中間だと言える。

その中には、活字の写真ではなく、もとの手書き原稿の写真もある。

挿絵等の写真復刻と意味は似ている。

(2017/02/17)

「貸本小説、貸本上がり古書」

昔には図書館以外で貸本が多く有ったとされる。

その時期には、貸本向けの本があったとも言われる。

実物には縁が無いし、逢うとすれば貸本上がりの古書だろう。

貸本というものは、どうしても痛みが激しいものだ。

繰り返し読まれることは、痛む事なのだろう、本屋の立ち読みされた本の酷い状態だ。

それが貸本を止めた状態で古書になると、痛みは激しい。

貸本特有の、紙やマークや印が沢山に書かれ押されている。

貸本上がり古書は、読むだけのイメージが強い。

紙は、日焼けと手の汚れと読書中の汚れがつきがちだ。

繰り返して読む事は、紙が汚れている事を示す。

とにかく、貸本上がりが何故に流通するのかは現在では理解出来難いが、そういう時期も有ったのだろう。

(2017/02/27)